液状のメモ帳

中身が漏れています。

存在することの価値、あるいは三輪ちゃんについて


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 存在することの価値というものを、自分は重要視している。
 例えば、大雨でコールド寸前の大敗試合で投げる中継ぎ。例えば、正捕手と第二捕手両方離脱してしまった時の臨時捕手。例えば、怪我人が続出した戸田で試合に出る、普段のポジションを無視した配置の選手。例えば、三輪ちゃん。

 野球はスタープレイヤーだけで成り立つものではない。有限の人的資源を、休憩とメンテナンスをはさみながら上手に回していく必要がある。主力を休ませたい時、試合の結果は度外視してもそこに誰かがいる必要がある時、その求めに応じられる人が存在しなければならない。三輪ちゃんは、その求めに全力で応じた選手だった。

 

 野球選手の価値は、試合に出た時の成績のみで計られがちだ。能力はあるが怪我がちなために退団やトレードをした選手が他球団で活躍すると、「なぜ放出したのか」と怒りの声が上がる。しかし怪我をしがちということは、試合に存在できない時間が長いということだ。なるべく全員を一軍・二軍の試合に出したいという首脳陣の意向もあり、(最近やっと解禁したが)育成を含め選手の人数を70人枠以下に抑えてきたスワローズでは、その場に「存在すること」の価値が高いのである。

 

 自分の好きな選手である近藤さん(近藤一樹選手)がこう言っていたことがある。
 「打たれたとしても数字が残る。投げれない時は一つも数字が残らなかったんで、負けがつくっていうのも投げないとついてこないんだって、ケガをした結果そういうふうに考え方を変えれるようになりました」
https://bunshun.jp/articles/-/9262?page=1
 三輪ちゃんの残した成績は、華々しいものではなかったかもしれない。でも、「華々しい記録ではなかった」と語ることができるということは、その場に「存在し続けた」という証拠でもある。

 

 三輪ちゃんが代走に加えもっぱらレフトの守備固めとして出てくるようになった時、自分はなぜ三輪ちゃんは外野手登録ではなく内野手登録のままであり続けるのかわからなかった。実質的には外野手なのに、なぜ戸田でもあんなに内野ノックを受けているのか。
 今ならわかる。1つのポジションを極めるということは、試合に存在できた時にはハイパフォーマンスを発揮できるけれど、他のポジションで存在することはできなくなるということだ。外野手登録されれば、一般に内野を守れるとは見なされない。三輪ちゃんに求められているのは、主力がそこにいなくても良い試合の時や年数回しかない緊急時に、確実にそこに存在すること。いつ来るかわからない一瞬のために、三輪ちゃんは内野手でい続ける必要があったのだ。

 

 内野手、外野手、緊急時の捕手、そしてなによりムードメーカーとして、チームのプラスとなるよう存在し続けた三輪ちゃん、本当に本当にお疲れ様でした。これからの長い第二の人生に幸多からん事を。